苦しまなかったはずである。
まさか、楽が死んでしまうとは思わなかった。このショックを和らげるためか、幽とシャボン玉遊びをしているところに、「ロードランナーに殺された」とか書いてあったけれども、これは読者を騙す為の叙述テクニックで、後になると助かるなんていうオチだと思っていたのに。だから、震電が、楽のことを探しにいったシーンと、幽と焔が戦闘しているシーンが交互に書かれていたところとかは、「大丈夫、多分、助かるはず」という、淡い期待を持ちながら読んでいた。
焔が一番戦いたかったのは、焔のことなんて気にもせず、地球儀を目指していた幽だった。が、実際の幽は、焔と戦った。その幽は、焔が戦いたかった幽ではなかった。二度目は本当の勝負じゃない。一度目だから、相手のことを思いやらずに、戦える。最初の一度目だけに、意味がある。最初の邂逅の時が、焔の夢であり、これからはもう訪れることのない夢であったのだ。焔と戦う幽は、焔にとっては戦いたい相手ではないし、焔と戦わない幽は、焔が戦うことが出来ないという、矛盾が生じてしまう。焔の夢は叶わない。
楽は、強くて格好良い焔が好きだった。楽になんて、一切構うことはなく、自分の戦いに全てをかける焔のことが好きだった。それは、諦めか?といった、おじいの問いも一蹴した。戦わない焔は、焔ではないし、だからこそ、自分は焔が好きなのだと。だが、実際の焔は、勝負の決着がつく前に、楽を助けるため、駆けつけてきた。それによって、結果的には楽は死んでしまうのだけども。
幽は、最後、無事に地球儀に降り立つことが出来たのだろうか。海が、というフレーズを最後に、その顛末は明らかになることは無かった。が、幽にとって、無事に降り立つことなんて、どうでもよくて、ただ地球儀を目指すということに、意味があったのかもしれない。だからこそ、トルクから出発した後の、軌道修正とかが、自分がその場にいるような錯覚を起こさせるほどの文で、書かれていた。クリスマスとの別れにより、孤独になってしまっても、幽は、地球儀を諦めきれない。クリスマスも、幽のことは、もう覚えてはいない。寂しいが寂しくは無い。次の、スカイウォーカーが、また必ず、現れるはずだから。
今は、大集会の考えで、どうにかなっているかもしれないけれども、いずれ、トルクに惑星が接近したりして、危機に陥るかもしれない。そのような場面になって、初めて、スカイウォーカーのような存在が必要とされるのかもしれない。
適当に、印象的なキャラについて、考えを巡らせてみた。
物語全体として、見た場合、1巻の時は、何か和やかな雰囲気があったように思えたのだけれど、2巻の読後は、ひたすら悲しい物語だったのだなと思った。楽が死んだことは勿論、悲しいが、それだけではない。楽と幽を失った焔の今後のことや、大集会の仕組みや、新たに現れるであろうスカイウォーカーによって繰り返される歴史など、これからも悲しいことが続いていく。この話だけでなく、これまで、このようなことが、スカイウォーカーの数だけ繰り返されてきたということを思うと、悲しすぎる。
とにかく、読後感としては、イリヤの時と同じような喪失感が、ずっとくすぶっていた。秋山の他の本も、こんな気分になるんだろうか。